太倉市と新しい絲竹(I・Y手記)

●地理●
太倉市は,県から市に移行(中国では市のほうが県より大きいのです)して10周年の都市です。
一応,江蘇省に属していますが,その一番はしっこになり,上海の嘉定と隣り合った格好になってます。 上海浦東空港から約2時間の地点にあり,太倉と浦東空港の中間点がちょうど上海の中心区域になります。

以下は,10月26日の定期演奏会のプログラムにはさみこんだ「楽報」より抜粋した地図です。


この地の利を利用して,近年,多くの企業を誘致しているようです。実際,おおくの日本企業をみかけました。
また,1995年11月より,鳥取県青谷町と友好関係を結んでいます。

ちなみに,ここは本来“たいそう”市と呼ばれるべきですが,私たちはよく知らない地名なため, なんとなく「おおくらおおくら」と言っていたので,もうそれが団内での通称のようになってしまいました。

●歴史●
太倉が「絲竹の里」たるゆえんは,その特異な立地と深く結びついています。

「太=りっぱな」+「倉」という地名が示すとおり,長江(揚子江)沿岸のこの地は,舟で物資を輸送するのに便利なので, 昔から糧食を貯蔵する倉庫が建ち並んでいました。どのくらい昔か,というと,2500年くらい前のことです。

そのころの中国は春秋時代と呼ばれていて,江南には呉(〜前403年)という国がありました。 「太倉」という地名はすでにこのころから存在していたようです。

呉が滅ぼされたあと,中国は戦国時代と移行しますが,かつての呉の地には楚の春申君という人が 封ぜられていました。この人は戦国の四君の一人に数えられる名君で,太倉も大いにさかえたことと思います。

このころから,太倉はずっと良港に恵まれた物資の集散地でありつづけました。春申君の時代から1500年たった明の時代, 中国から東南アジアを経てアフリカ東海岸まで船で探検した鄭和(1371〜1434ころ)も,七たび, この太倉の地から出航しています。

さて,物資が集まるということは,とうぜん,人の行き来もあるということです。
各地から集まった人々がそれぞれ出身地の文化を携えて,太倉に集まってきます。
結果,もともと当地にあったものに,外地の文化がまざりあって,新しいものがたくさん生まれました。 音楽もそのうちの一つです。

●音楽の交差点●
当時,音楽といえば演劇と切り離せない存在でした。この伝統的な演劇は,宋・元・明代のころには 北方で流行した北曲(七音音階)と,南方で流行した南曲(五音音階)に分かれていました。 元代には北曲が一世を風靡していましたが,明代になると南曲が飛躍的な発展を遂げました。 その舞台となったのがここ,太倉です。

当時のはやりの音楽は4つのタイプがあり,そのうちの一つが「崑山腔」と呼ばれるフシでした。 それを研究したのが,魏良輔という人です。この人は江西省出身の,やはり外来の人だったのです。

太倉の南部にある船着き場に居をかまえた魏良輔は,もともと北曲を勉強していたそうですが,なぜかあまり身に付かず, そのうち南曲の研究に没頭しました。

港町には当地を防衛する兵士もあちこちからたくさん派遣されてきます。彼らは単に 与えられた任務をこなすだけではなく,自らの出身地の音楽を太倉に伝える役割も果たしたのです。

テープもCDもない時代,音楽が伝わるには,直接ヒトを介するしか手はありません。 その点,太倉は非常に恵まれた条件を備えていたのです。

そして,音楽に通暁した兵士の一人,張野塘との出会いが,魏良輔に一種の「突破口」を開きました。

張野塘は罪人として当地に派兵されたものの,もともとは専門の楽師で,特に北曲に通暁しておりました。 これは魏良輔が苦手としていたところなので,彼は進んでこの兵士と交流をもち, しまいには,自分の愛娘を彼に嫁がせるほどの深い友情を結びました。

このほかにも多くの人々が陰に陽に魏良輔をささえ,彼はついに南北両曲を融合し, 崑山腔を芯に,ほかにも民間の音楽や他地方の音楽を取り入れた新しい音楽−崑曲を完成させたのです。

南北の音楽の長所をかねそなえた崑曲は,その後,爆発的な流行を遂げました。 『西廂記』『琵琶記』『牡丹亭』『長生殿』など,明代の代表作の多くは崑曲の作品です。

●「おおくら」人の素養●
また,物資の集散地は,豊かな富をはぐくむ土壌になります。当時の金持ちの多くは 邸内に「戯台」を作りました。つまり,自分の家のなかに演劇専用の小舞台を作るようなもんです。 そして,そこに優れた芸能チーム(班子)を自分専用に養って,劇や音楽を楽しみました。

私たちは太倉出身の明代の大官,王錫爵(1524〜1610)の邸宅を見学しましたが, そこにも立派な「戯台」があったそうです。しかしすでに壊されたか移転したかで, みることができませんでした。ということで,ご参考までに下の写真を。

これは山東省済南市にある,曾鞏(そきょう)という人がたてた戯台です。上が見るところ, 下が上演するところです。ここは,両者の間に泉(■(足+勺)突泉)があってとてもキレイでした。
(98年9月24日撮影)




さて,話を戻すと,金持ちおかかえの「班子」にとどまらず,太倉はもともとが音楽がさかんな土地柄でした。 家々からは楽器の音がもれきこえ,多くの音楽結社が活動し,しかも彼らのほとんどが いろいろな歌や各種楽器もこなすなど,多芸多才ぶりを発揮していたといわれています。

清代になると,太倉の経済はますます栄え,その豊かさは「金太倉」と称されるくらいでした。 太倉を通った物資は,あるものは直接,あるものはここで加工され,中国全土に運ばれていきました。 加工業としては特に綿織物が盛んで,江蘇省のなかでも3本の指に入るほどであったようです。

お金があるところに,もともと音楽の素地があった土地ですから,太倉の音楽レベルはますます上がりました。 そんなとき,清代の苦労人皇帝,雍正帝によって,大官が家で芸能チームをやとうのはまかりならん,というお達しが下されました。

雍正帝は前を康煕,後ろを乾隆というド派手な皇帝に挟まれてあんまり存在感がありませんが, (故宮博物館には,豪華すぎるあまりむしろ悪趣味に近いようなシロモノがたくさんおいてあり, そのほとんどが乾隆帝のものなので閉口したほど)すごくまじめで,熱心に皇帝業?をこなした 人だったので,そういう奢侈は許せなかったのかもしれません。

一見,音楽の発展を妨げるようなこのお達しは,しかし,多くのおかかえ芸人を民間に放出することになり, かえって太倉の音楽レベルを飛躍的にひきあげるという形になったということです。

江南絲竹は,まさにこのような土壌から生まれ,はぐくまれた優美な器楽合奏なのです。

●よみがえれ!江南絲竹●
さて,ふりかえって現在,江南絲竹は存続の危機に瀕しています。
「伝統八大曲」の出版以来,たえて新曲はでていません。
愛好者は老人ばかり,若者はもう絲竹に見向きもしません。

繊細さ,優美さを追求するため,基本メロディに装飾音を加え, そしてたくさんの装飾音を加えるためにテンポをどんどんひきのばす(放慢加花)ことによって 発展を遂げていった絲竹ですが,その発展の先には,曲がどんどん冗長になり, 過度に装飾されたメロディは複雑すぎて習得すら困難になり, 音楽から次第に活力が失われていくという隘路が待っていました。

そして現在,絲竹を単なる「背景音楽」としかみなさない人も少なくない,といわれます。

笛子の人間国宝,陸春齢氏をはじめ,絲竹の担い手の人々はそのような現状を深く憂えていました。 この状況を打開すべくとられた方法は,すでにドン詰まりの状況だった絲竹を, もう一度その原点である太倉から見つめ直すことでした。

まず,太倉に息づき,いまもなお逞しい生命力を誇っている多くの楽曲を民間から発掘しました。 これは,90年代前後から編纂がはじまり,現在20余巻に及ぶ大著『中国民族民間器楽曲集成』の 江蘇巻編纂に着手した1992年ころの調査が下敷きになっています。

このとき,蘇州市部分で採用した曲目のうち,江南絲竹は45曲,うち過半数の24曲が 太倉というこの大きくもない地方からとられたものというから驚きです。 この24曲からさらに「あたらしい絲竹」候補として10曲が厳選されました。

この10曲を後世に残すべく,現在の鑑賞にも堪えるような編曲がほどこされました。 いいかえると,民間出の素朴,悪く言えば田舎っぽいメロディを,美しく洗練された 新しい絲竹音楽につくり変えることにしたのです。

ここで活躍したのが,太倉出身で,あの有名な『新婚別』の作曲家,張暁峰です。

●『太倉江南絲竹十大曲』●
張氏の指揮のもと,新しい絲竹を生み出すプロジェクトチームの面々は,絲竹の基本をふまえながらも, 従来の絲竹にひとあじ違った編曲を凝らし,時代に合った音楽にしようとしました。

たとえば,副旋律を多用して音楽に立体感を持たせたり,テンポの速い「聞かせ場」をつくったり, 輪唱のようなメロディのおいかけっこを作ったりしました。

このほか,冗長にならないよう気を付け,演奏も4分前後に収まるような簡素な作りにしたり (ここで参考になったのは,絲竹とは対照的に,いまなお生命力を有する広東音楽のありかたでした。天昇でも演奏した『歩歩高』『旱天雷』などは,いまも広く中国で愛されています) ふだん絲竹では使われない大阮(実際にはチェロが使われていたが)や古箏を採用して, 低音に厚みを持たせたり,旋律に花を添えたりするなど,の工夫もされました。

そうやって完成したのが以下の十曲です。
『烏夜啼』『槐黄』『春花秋月』『節節高』『花花六板』『六花六板』『南詞起板』『龍虎闘』『葡萄仙子』『八段錦』



(左が譜面,右がCDです)

それでも,十曲ではなく,もうちょっと曲目をしぼったほうがよかったんじゃないか,とか, もうちょっと面白くて人目をひく曲名にしとけばよかった,とか,もっといろいろな調を使ったり, もっと効果的に転調を使ってもよかったんじゃないか,とか(絲竹はD調ばっかりなんだそうです), いろいろと反省点も挙げておられました。

まあ,でもこれらが,絲竹に新たな風をもたらすものとして人々に受け入れられ,定着するかどうかは, 今後,長い目でみまもっていけばいいのではないかと思います。

また『太倉江南絲竹十大曲』を世に問うほか,絲竹を子どもたちに学ばせるという試みもされ, その成果が,11月9日の■(王+黄)小学校民族楽団の見事な演奏として結実していました。

たしかに,絲竹に新しい風が吹き始めたようです。

(当ページの記載は,『江蘇・太倉江南絲竹中外交流演奏会・理論研討論文集』の各論文の内容を中心に, 他のいろいろな記事を参考に構成しなおしたものです。)

※参考:太倉のHP その1 その2

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